歴史学とヒストリーカルチャー(その1)


日本のアジア史研究を題材とするヒストリーカルチャーの可能性

 ヒストリーカルチャーとは、ある社会ないし人間集団に共有される歴史イメージを表象するメディアを指す。歴史イメージには、多くの場合,史跡・文化遺産・伝承といったその源泉となる媒体が存在する。そして、ある歴史イメージが伝播する過程においても、そうしたメディアが重要な役割を果たす。また、そうしたイメージをキープし時代をバウンドして伝わることを可能にする人・組織・アーカイヴなどが存在する。伝播の過程では、意図的に「脚色」が加えられたり(例えばある段階で意図的な誇張や再編が行われて、本来のありようと乖離した歴史イメージが構築されるなど)、あるいは無意識的な「誤訳」のために少しずつイメージが変容したりする。本研究は、様々な媒体を通じてある歴史イメージが最終的に独特な形で特定の社会や人間集団に広く浸透し共有されるにいたるプロセスに着目する。そして、そのような歴史イメージが人びとの他者認識やアイデンティティに影響をおよぼすさまを具体的なトピックから探りたい。EU圏において社会的な歴史認識そのものではなく、歴史的素材を含む雑誌・映画や観光資源といった媒体そのものを対象とする研究が発展した。本研究は主にドイツにおける当該研究分野の旗手であるスザンヌ・ポップ教授の次の論文を参考にしている。
Susanne Popp etal.(eds.), Commercialised History: Popular History Magazines in Europe Approaches to a Historico-Cultural Phenomenon as a Basis for History Teaching (Peter LangGmbH, 2015); “Historical Consciousness, Historical Culture, and Public History: Three Key Concepts of History Teacher Education at German Universities”[歴史認識, ヒストリー・カルチャー, パブリック・ヒストリーードイツの大学における歴史教員養成の三つのキー概念ー](『アジア太平洋論叢 』22, pp. 80-86, 2020)
 近年、歴史をアカデミアの独占から解き放ち、パブリックに開いていこうという議論が巻き起こっている。また、歴史を「じぶんごと」としてとらえ、主体的に関わることの重要性が歴史教育のなかでもさかんに議論されている。そのような中で、アカデミックな歴史とパブリックな歴史とがある種の対立関係にあるようにも見えてしまう。しかし実際には、日本において近代歴史学が生まれたときも、その時代のパブリックな歴史の動向と無関係ではなかった。戦後から今日まで日本の歴史学界を担ってきた研究者たちも、アカデミア内部で純粋培養されてきたのではなく、メディアをはじめ様々なパブリックな影響を受けつつ、歴史学を志すに至ったという面も無視できないのではないか。そこで、以下、筆者の身近な体験を中心にしつつ、「大モンゴル」と「シルクロード」というふたつの歴史ブームを例に、歴史学(者)とそれを取り巻くより広い社会的コンテクストや、歴史学(者)たちをその道にいざなう役割を果たした(であろう)様々な媒体としてのヒストリーカルチャーとの関係性をみてみたい。

大モンゴル・ブーム 

 筆者の高校時代1990年代初頭、ソヴィエト連邦崩壊にともないモンゴル人民共和国がモンゴル国に代わり、民主化が進められ、その様子は日本でも報道されていた。モンゴルに関しては政治以外にもメディアを賑わせる話題がいくつかあった。そのなかに筆者が衝撃を受けたモンゴルの英雄チンギス・カンの復権をめぐる話題があった。 
 チンギス・カンはヨーロッパにおいても日本を含むアジアの多くの国において破壊をもたらす侵略者として記憶され、叙述されてきた。じつはこれとは別の意味でモンゴルにおいても70年もの間おおっぴらにその名を語ることすら憚られた時期があった。かつての社会主義体制下において、人民を苦しめる封建君主とみなされていたのである。そのチンギス・カンが民主化にともない復権を果たす。1992年放送のNHK・BBC共同制作番組『大モンゴル』Ⅰ~Ⅳは、ヘンティ県に建てられたチンギス・カン像が刻まれた石柱を紹介した。その2年前にオチルバト大統領出席のもと開催された『元朝秘史』成立750周年記念式典で除幕式が行われた。その30年前の1962年、モンゴル政府が公認したチンギス・カン生誕地同県ダダル村ではチンギス・カン生誕八百年を記念しチンギス・カンが描かれた20メートルの石碑を建てた。途中モンゴル政府から建設命令が出されたものの、村人たちはひそかに完成させてしまったが、記念碑建設を発案した地元出身の政治家は失脚し、村は厳しく監視されたという(NHK取材班『大モンゴル1―蒼き狼 チンギス・ハーン―』角川書店、1992、38~40頁)。本番組ではアジアとヨーロッパの多くの国で撮影された映像に加え、CGを駆使した斬新な手法とともに当時の最新の研究成果が多く紹介された。
 1992年頃には、今風に言えば一種のメディア・ミックスとでも言うべき多方面にわたるモンゴルに関連するコンテンツが一斉に製作発表されて世を席巻していた。多くの関連書籍が出版され、国交樹立20周年展覧会「大モンゴル展―草原の自然と人間―」(読売新聞社主催)が開かれ、考古学者加藤晋平監修の図録も編まれた。10月にはモンゴル・日本合作映画『チンギス・ハーン』(ベグズィン・バルジンニャム監督)が公開された。音楽業界では日本を代表するシンセサイザー奏者冨田勲がNHKスペシャル『大モンゴル』のテーマ曲を担当したほか(アルバム『蒼き狼の伝説』に収録)、10月にはモンゴル出身歌手オユンナが先に触れた映画の主題歌として「エージンハイル」を発表した。 
 当時、モンゴル帝国史研究分野もまた盛り上がりを見せていた。当時新聞を賑わせていたのが、いわゆるゴルバンゴル計画であった。これは1990~93年にかけてチンギス・カンが埋葬されたという伝承があるヘンティ県のブルカン山麓に1990年代初頭に行われた日本・モンゴル合同の考古学調査である。村上正二・江上波夫・加藤晋平らが関わり、その状況をメディアに発信していた。結局墓は見つからず終了したが、その後も、白石典之らを中心にチンギス・カン宮殿址のアウラガ遺跡考古調査が行われ、謎の多いチンギス・カン時代の宮殿についての知見を刷新し、『チンギス・カンの考古学』(同成社、2001)など新たな成果につながった。 
 NHKの番組制作に協力した杉山正明は1992年6月に出版した『大モンゴルの世界―陸と海の巨大帝国―』(角川書店)以降続々と発表した多くの著書とともにモンゴルの古色蒼然としたイメージを次々と覆していった。また当時この分野の若手中堅であった宇野伸浩・宮脇淳子・村岡倫・松田孝一・森田憲司ほかが執筆した『歴史群像シリーズ チンギス・ハーン』上・下(学研、1991)の内容は質と量ともに群を抜いていた。1990年代終わりから2000年代半ばにかけて大学院で東洋史学を専攻した筆者は、学会や研究会で同書の名だたる執筆者たちと顔を合わせることとなり、杉山の説がおおむね当時の研究者たちが共有する歴史像を代弁していることを知ることとなった。 
 こうした大モンゴル・ブームがアカデミアにどの程度のインパクトを与えたのかは分からない。ただし無視できないのは、このような時代を高校生・大学生として過ごした同世代の研究者がモンゴル帝国史研究分野の厚い層を形成しているということである。就職氷河期と呼ばれた状況や1990年代からの大学院重点化など、研究者の卵を多く生み出そうとする国家的戦略(その人材の受け皿は準備しなかったので無残な失敗と評されるが)が多くの研究者人口を生み出した要因として無視はできないが、当時の日本の若い知性のかなりの人口がモンゴル帝国史のみならずアジア史研究の分野に流入した。  

(つづく)

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