歴史学とヒストリーカルチャー(その2)


最初の蒙古襲来ブーム ?

 1992年前後の「モンゴル・ブーム」が、現在のモンゴル帝国史研究分野の「黄金世代」とどの程度関わっているのか証明することは難しい。1990年代にモンゴル帝国史研究が活況を呈し、多様な視点からの研究が進展し、杉山正明が『大モンゴルの世界』(角川書店、1992)のあとがきに「あれもわからない、これもわからない」(365頁)と書いたような状況よりは幾らかましになり、若手研究者が最新の成果に触れることができる状況が生まれたことも関係するかもしれない。一方、1992年以前にもモンゴル帝国史を含みつつ、より広く中央ユーラシア史に関心を刺激するような社会的なブームが研究分野の活性化と連動していた例を見出すことができる。それが次に述べる1890年代の蒙古襲来ブームと1980年代のシルクロード・ブームである。 
 日本のモンゴル帝国史が長い伝統をもつことは、那珂通世『成吉思汗実録』(大日本図書、1907)という書の存在が示している。那珂通世には洪鈞『元史訳文証補』(文求堂、1902)の校訂という業績もある。ところが、こうしたアカデミズムの世界のみならず、明治期の日本社会においては、モンゴル帝国に対し、ある特別な関心が寄せられていた。 
 江戸末期にいたるまで、日本で歴史が語られる際、蒙古襲来に言及することは決して一般的ではなかった。当時、日本では中国と同様、『千字文』や『三字経』といった漢文で書かれた四字句が連続する長詩や三字句の韻文が小児の書道の手本や漢字習得のために用いられてきた。その内容は道徳に関するものや歴史の知識を盛り込んだなどがあった。日本の通史を学ぶことができるようなものも何種類も作られていた。(本格的な調査を行ったわけではないが筆者の管見の限り)もともとそこに蒙古襲来に関する句は含まれていなかった。ところが、1853年のペリー来航を契機に、蒙古襲来が『千字文』や『三字経』に登場するようになる。1868年、江戸幕府が倒れて明治政府が誕生すると、国民の統合を図るため蒙古襲来の集合記憶が呼び起され、利用されるようになる。 
 蒙古襲来の記憶を1886年、福岡警察署長となった湯地丈雄は、長崎に帰港した清国北洋艦隊水兵の暴動(長崎事件)や、コレラの猛威による死者を目の当たりにし、往時の蒙古襲来の惨状に思いを馳せ、明治日本を取り巻く清国やロシアの脅威に対抗すべく国民の一致団結を促すため、職を辞して博多に元寇記念碑を建立する運動に乗り出していく。欧米遊学から帰国してパノラマ画製作で活躍していた矢田一嘯の協力を得て、14枚1組の油絵『蒙古襲来絵図』とともに全国を行脚して遊説しながら献金を募った。そして1904年、4メートルをゆうに超える亀山上皇の銅像を載せた記念碑を完成させた(「銅造亀山上皇立像」『福岡市の文化財』https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/211 2022年10月30日閲覧)。亀山上皇は蒙古襲来当時、神に祈って敵国モンゴルの調伏を祈願したことで知られ、当初の案であった騎馬の鎌倉武士に代わって国家鎮護のシンボルとなった。折しも日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を壊滅させたばかりの連合艦隊司令東郷平八郎が訪問し、亀山上皇銅像に戦勝報告を行った。 
 当時の人々の耳目に触れた蒙古襲来イメージの「メディア」として、1873年発行の一円紙幣がある。その裏面には元寇が描かれていた。さらに、軍歌「元寇」(1892年、永井建子作曲)もまた、「メディア」としての力を発揮し、戦場で兵士たちを鼓舞し、勝利をもたらした。日本人はこうした想像上のモンゴルを他者としてひとつにまとまり、自己形成したということすらできるのではないか。 
 市井のヒストリーカルチャーとアカデミズムの歴史学との交錯も見られた。1891年には重野安繹監修、山田安栄編纂の蒙古襲来関係史料集『伏敵篇』が刊行されたが、湯地は巻尾に辞を寄せている。湯地丈雄は元寇記念碑運動と連動して、蒙古襲来の関連史跡を踏査し、そこで得た知見を元寇油絵製作に取り組む矢田画伯に提供するとともに、湯地文雄・高橋熊太郎『元寇―日本と蒙古の対戦―』、『元寇夜物語』(ともに1893年刊)など児童向けの啓蒙書やパンフレットを執筆している。日本ではまだよく知られていなかったマルコ・ポーロがそこで紹介されている。ただ、このころマルコ・ポーロはフランチェスコ会修道士のような姿をしており(実際にはヴェネツィア商人)、モンゴル皇帝フビライに日本征服をそそのかした人物として描かれていた。湯地とともに日本全国津々浦々を巡回した矢田の元寇油絵や元寇幻灯画(当時流行した一種のスライド映写機)にも托鉢修道士のようなマルコ・ポーロが描かれていた。マルコ・ポーロの名が広く知られる契機となったであろう。
 映画館がまだ存在しなかった当時、戦争などを題材とする360度の絵画を巡らせたパノラマ館がロンドンで始まり世界各地に建てられ人気を博した。日本でも上野や京都・博多・熊本などにパノラマ館が作られた。欧米に渡り洋画の技法を学んだ矢田一嘯は日本におけるパノラマ画の第一人者でもあった。矢田の油絵『蒙古襲来絵図』は厳密にはパノラマ画ではないが、暗い会場に陳列され、湯地の熱弁と相まって、演説の場は独特の昂揚感を醸し出す劇場と化していた。これらは日本におけるモンゴル帝国史研究の嚆矢とも言うべき那珂通世『成吉思汗実録』が刊行される14年前のことであった。 
 その後、アカデミズムの世界では、1890年代に10〜20歳代を過ごした箭内亙と池内宏が東京帝国大学から輩出し、モンゴル帝国史研究を継承した。池内は『元寇の新研究』で知られる。戦前・戦中の東京帝国大学と戦後の東京大学からはその後も多くのモンゴル帝国史研究者を輩出した。その中に『元朝秘史』と『集史』を比較考察し京都大学で教鞭を取った本田実信が現れ(もちろん他にも京都大学には岩村忍、安倍健夫、宮崎市定といった名だたるモンゴル帝国史、宋元史研究者も多々いるが)、その元から杉山正明が登場する。 

シルクロード ・ブーム

 かつて日本にシルクロード・ブームというものがあった。いつからいつまでと明確に時期を区切ることは難しいが、このブームを象徴するのがNHK特集『シルクロード―絲綢之路の道―』である。この番組は1980年4月から翌年にかけて毎月1本計12週にわたって放送され、大きな反響を呼んだ(「番組エピソード NHK特集「シルクロード-絲綢之路(しちゅうのみち)-」から、NHKスペシャル「新シルクロード」へ」『NHKアーカイブス』https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=special002 2022年10月29日閲覧)。中国が改革開放政策を進めていた当時、時に作家の井上靖や西夏語研究で知られる西田龍雄京都大学教授をともないつつ西域奥地までロケを敢行したのは画期的であった。この番組はそれまで長く外部に閉ざされていた中国の現状をまざまざとテレビに映し出し人々に衝撃を与え、関連本やビデオ、CDも続々販売、そのブームの余韻はしばらく続いた。オカリナ奏者喜多郎によるテーマ曲「絲綢之路」も大ヒットし、1990年代まで多くの日本のシルクロードファンが西安・敦煌をはじめとする中国の観光地を旅行に訪れた。しかし21世紀に入ると日中関係が冷え込んだこともあり、西安に旅行する日本人は激減し、日本語通訳の需要もなくなったという話を現地で聞いた。 
 榎本泰子が『「敦煌」と日本人―シルクロードにたどる戦後の日中関係―』(中央公論新社、2021年)で指摘するように、NHKの番組放送よりずっと前からシルクロードブームは存在していた。20世紀の初め、かつて栄えたシルクロードの都市敦煌から膨大な古文書群が発見され、英・仏・日本など各国の探検隊が古文書を持ち帰り、以来その解読がそれらの国々で進められ敦煌学という分野を成すまでに至った。榎本によれば1950年代から日本でも敦煌莫高窟への関心は高く、その流れの中に井上靖が1953年から構想し1958年に発表した小説『敦煌』も位置づけられるという。また当時の新聞からは1960~70年代に広義のシルクロードブームの存在が確認されるという。例えば堺正章、夏目雅子、西田敏行、岸部四郎が日本テレビ系列のドラマ『西遊記』の放送は1978~79年であった。1978年は日中友好平和条約が結ばれた年であり、シルクロードを舞台にした本ドラマは中国ロケで撮影した現地の映像をふんだんに使用していた。またゴダイゴが歌うオープニングとエンディング曲もヒットを記録し、バンドの躍進につながった。宮崎駿が若手時代の1969~70年に発表した連載漫画『砂漠の民』はシルクロードを舞台としていた。その後、宮崎が1982年から10年以上かけて描き、アニメ映画化もされた『風の谷のナウシカ』にもシルクロードを意識したと思われる描写が随所に見られる。一見何の関係もないように見える宇宙SFアニメ『機動戦士ガンダム』(1978~79年放送)もまた、主人公たちが乗るホワイトベースが宇宙ステーションから月を経由して地球の南米に降下したのち、太平洋を横断し、シルクロードを東から西へ黒海のオデッサまで飛行する。その際、スウェン・ヘディンの『さまよえる湖』で知られる中央アジアの塩湖ロプノールで塩を補給する。シルクロードの知識がNHK『シルクロード』放送前から知られ、それが作中にわざわざ描かれたのは今からすれば驚嘆すべきことである。1979年10月には歌手の久保田早紀が異国情緒あふれる楽曲「異邦人―シルクロードのテーマ―」で鮮烈なデビューを果たした。 
 日本の東洋史学研究もこれらのブームの背景に深く関わっていたことも見逃せない。例えば、榎本も紹介するように、京都帝国大学出身の井上靖が『敦煌』執筆のあいだ同年代の藤枝晃(当時は京都大学人文科学研究所助教授)と対面・電話でやりとりをし、情報提供を受けていた。このことは東洋史学を学ぶ者の間では有名な話として筆者も聞き及んでいた(30~31頁)。『シルクロード』放送前後は、日本ではヤング・トンコロジストと呼ばれる次世代の敦煌学者が輩出しており、その活躍はその後もさらに続いた。 
 筆者が学部から修士課程(正規には博士前期課程)在籍時を過ごした1990年代後半は、香港の映画監督王家衛や陳凱歌が次々とヒットを飛ばすなど、アジアの芸能が盛り上がりを見せていた。1998年から小渕恵三首相も東南アジア関係など活発なアジア外交を展開していた時代であった。いまも日本で中国や韓国のアイドルが人気を博し、日本のアイドルや歌手が軒並みアジアに進出したりコラボレーションをしたりと、アジアの芸能界の交流はある意味活発であるが、一方で、外交関係や国民感情は一筋縄ではいかない問題も抱えており、かつてのシルクロードブームのような数多くのメディアに加え学術界まで連動して巻き起こるようなブームは起こりにくい。 
 このように、かつて日本では膨大な資金、想像力、エネルギーが「シルクロード」というコンテンツを生み出すために注ぎこまれた。榎本泰子は「日本人の西域に対する関心は20世紀を通じて常に存在しており、それは日本が中国ひいては世界といかに関わっていくかという課題とリンクしていた」とし、自身が大学で中国語を選択したのも時代の影響であったと振り返る。こうしたブームと時代の空気が今のモンゴル帝国史研究の黄金世代を生み出すのに一役買っていたのだとすれば―そして、研究力低下が嘆かれる昨今、当該分野においては日本が世界の学界で無視できない一角をいまなお占めているとすれば―無駄ではなかったと言えよう。 

(終わり)

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