大学生による「バウンドする伝播のネットワーク」の事例分析:
ジャポニズムに見る伝播ネットワーク
近年、アニメや漫画、食などの様々な日本文化が世界的に注目を集めている。特に漫画やアニメの人気は高い。様々な言語に訳され、それぞれの国で親しまれている。しかし、アニメや漫画が広まる以前にも日本の芸術や美術に世界から興味が寄せられていた。それがジャポニズムである。以下では日本美術、芸術の欧米への伝搬、すなわちジャポニズムの広がりについて見ていく。
ジャポニズムとは、19世紀末から20世紀初頭の欧米において流行した「日本趣味」のことである。まず、ジャポニズムにおける閾値として日本の開国と1867年のパリ万国博覧会(以下パリ万博)、フィラデルフィア万国博覧会(以下フィラデルフィア万博)の3つを挙げる。どれも日本の芸術、美術文化伝播の大きな機会であった。
日本画家である平松礼二によれば、ジャポニズム以前にシノワズリーと呼ばれる中国趣味が西洋で流行しており、東洋の文化に対する興味の土台ができていた。その時期に日本が開国をして日本文化が西洋に流入したことで日本の芸術や美術に関心が持たれるようになり、パリ万博を機に更にジャポニズムが広がった[1]。
松本ら(2007)はジャポニズムの広がりと開国の関係、フランスにおける日本の芝居に対する翻訳について次のように分析している。日本の文物は開国前から西洋に渡っていたが希少品であった。しかし、日本が開国したことを契機に海外からの来訪者が日本の美術品を発見して持ち帰るようになり、欧米で日本美術品に対する関心が高まり、美術品の収集を目的に来日する者も出てきた。そして日本が1867年にパリで開催された万国博覧会に正式に参加したことにより、フランスを中心に西洋で日本文化への興味や関心が急激に上昇することとなった。しかし日本文化受容の際には、彼らの好みによって文化の取捨選択が行われた。その具体例となるのが、フランスでの川上一座の成功だ。川上一座とは、川上音二郎とその妻貞奴を中心とした劇団で、1900年から1903年にかけて欧米諸国で日本の芝居を演じ大きな成功を得た。皮肉なことに、フランスにおける成功の理由は物語の内容ではなく、日本演劇に見られる動きや表現方法であった。劇場主であるロイ・フラーの求めや日本芝居の特徴とされた切腹の演技や斬り合いの場面の動きを見に来ている観客に答えるために、切腹しない登場人物に切腹させるなど、もとの話の筋を無視してフランス人が好むシーンを継ぎ接ぎした歌舞伎を演じる必要があった[2]。
このように、日本人からは本当の日本の芝居ではないと批判を受けながらも、フランスで成功するためにはフランスでの翻訳に基づく日本の芝居を演じなければならなかった川上一座の事例はまさしく伝搬と翻訳の具体例といえる。
次にアメリカに目を向けると、中島(2007)はアメリカにおけるジャポニズムの広がりを次のように述べている。アメリカにおいて日本美術が大々的に知られるきっかけとなったのは1876年に行われたフィラデルフィア万国博覧会(以下フィラデルフィア万博)であった。日本は高度な職人技を駆使して作られた工芸品を日本の美術品として展示し、それらの商品はアメリカ社会においてジャパン・クレイズ(日本熱)と呼ばれる日本の工芸品の流行を引き起こした。裕福な美術愛好家はこぞって日本の工芸品を収集し、中には邸宅の一部を日本風に装飾する者もいた。また、高級装飾品メーカーのティファニー社やハーター兄弟工房、ロックウッド・ポタリ―などでも日本のデザインを取り入れた日本スタイルの製品が制作された。その後、日本趣味の流行は大衆化しアメリカの庶民の生活の中でも日本の工芸品が見られるようになった[3]。
以上のようにジャポニズムは、伝番のネットワークを開放した開国と日本独特の芸術や美術文化を大々的に西洋へ公開する機会となったパリ万博とフィラデルフィア万博への参加を閾値として欧米へ広がり、広がった日本文化はそれぞれの地で翻訳されて「日本風」な作品が生み出されるようになった。ジャポニズムはまさしく伝搬と翻訳によって世界に広がったのである。
M・Aさん
[1] 平松礼二「なぜ西洋でジャポニズムが生まれたのか?」『PHPオンライン衆知』(https://shuchi.php.co.jp/article/2901 閲覧日:2020年11月29日)
[2] 松本孝徳―他「パリ万国博覧会を契機とした日本文化受容」『九州産業大学国際文化学部紀要』37、2007、145-155頁
[3] 中島朋子「19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカの日本美術理解」『文明研究』26、2007、1-14頁
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